2011年3月18日金曜日

追追記

「意識を変える為には人か場所か時間を変えるしかない。最もやってはいけないのは決意を改める事。」





というような言葉を前に耳にしたけど、



「人か場所か時間を変えると意識が変わる。」

みたいに逆に辿ってみれば、



自分が求めているのは意識が変わる事かもしれない。







意識改革、良い兆しある。

追記

想像しないことで責任は生じない。



カテゴリを既存の完成品として受け入れない。





良質なモノはカテゴリなんか軽く超えたりする。





少なからずいくつか僕も体験したことがある。けど、こういうものは形容しづらいから、共有が難しい。そのせいもあってカテゴリは強固になってしまうけど、これから生きていればそういう形容しづらいような、ある意味美しいモノにたくさん出会えそうで楽しみすぎる。

2011年3月17日木曜日

分かるモノ、伝わるモノ、それは自分へのこだわりか?

いろんなことが分からないから、枕詞をとっていつも通り最近思うことをのんびりと考える。













もう三ヶ月ほど前の

話、元旦のイオン土浦の本屋でたまたま目に入った新書のキャッチコピー。



「その場所でしか味わえない時間と空気感」



茨城ののんびりカフェ特集みたいな本で、立ち読みした本の内容よりもそのコピーが妙に頭に残った。







時間が経ってその理由が前から思ってた、時間と思い入れと似ていたからだと気づいた。



ちょっと勝手に付け加えさせてもらって、

「その場所でしか味わえない時間と空気感と人」

だ。



そしてなぜそれを大事にしたいかを考えてみるといくつかの思いつきがでてくる。



・過剰なカテゴライズ

・責任と知のバランス

・ルーツを探る







[過剰なカテゴライズ]



それぞれ個別のモノを分かりやすく記号づけする作業「カテゴライズ」によって各々の負担は軽くなってしまう。



例えば、「理系と文系」

文章を読む読解力は数学的な論理性が力になるし、単独な項目を記憶して整理する力は数学や物理の公式にも応用できるはず。相互に高め合うはずの能力が大学受験では分断されたりする。でも、この分断は受験だけではなく、以下の枕詞としてずっと遣われる。

「理系(文系)なのに...」

「やっぱり理系(文系)だね。」

など。



誰もがいくらかは持ってる能力なのに一度理系と文系に分けられることで、その他方を無かったことにする状況が起きる。



不確かで、きっと本人すら未知な情報をカテゴライズすることで、その情報の正誤をぬきにして一度確かな情報になる。そして、そのカテゴライズは無意識に両者の間で成り立って広く普及しているからコミュニケーションは円滑に進む。



このカテゴライズが高度に完成しすぎたことで、たくさんの人は自分の判断の前にたくさんのフィルターがかかる。このフィルターは本人の傾向は影響しても本人の意思はあまり反映されない。そのために「これはこう決まっている」と処理できるようになる。





[責任と知のバランス]



これは高校の先生が言っていた言葉。元々は義務教育が終わり大学にいくお前らは与えられる事を待たずに自分の責任で知を得ろ、といった話だった。



自分なりに言い換えると、カテゴライズに頼らないことで自分の一挙一考に責任がのる。それによってその個人が発する事のできる覚悟のある知は格段に面白くなるという風に言いたい。





[ルーツを探る]



人の第一印象・考え方・言動・生き方はどんな風に決まるんだろうと考えると、それは責任と知がどうやって堆積したかであって地層の断面みたいなものかもしれない。



場所にも同じことが言える。

文化遺産がどんな時を経て現存しているか、ゴールデンゲートブリッジがどのように架けられた橋か、それを知った上でみるのと、知らずにみるのでは決定的に何か違うハズだと思う。たぶん場所にも魂は宿る。













カテゴライズに頼らないことで、もっと自分で綱渡りを楽しむべき。



もちろん相手の心の奥にいくために自分を分かってもらう必要があって、そのためにカテゴリに頼ることはたくさんある。だけど、その頼る時にも自分の思念を織り交ぜなくちゃならない。



たぶんこれには責任が必要で、相手の心に踏み入ることになる。これを繰り返すことでルーツが生まれる。あとは輪廻。



そんなハイレベルな意思疎通をしてみたい。よく分からんけど。









「その場所でしか味わえない時間と空気感と人」

とは

時間の縦軸に場所と人そもそもが持つ空気感に加えて、時間の経過によって高まるルーツが創り出す空気感も混ざることで、その空間独自の面白さが生まれることです。









たぶんそんな感じです。

2011年3月9日水曜日

きっと

たぶん、あともう少しで紙と鉛筆があれば自由に自分の世界を持ち歩ける気がする。





集中は気付いたらなってるんじゃなくてスイッチを押すようにだ。

久しい

料理の薬味やお皿含む盛り付けは人で言うところの第一印象で、とても大事だ。



料理の美味しさはの半分は薬味とお皿で決まるよ。







clark-Future Daniel







Shing02 - F.I.L.O.

2011年2月19日土曜日

a view over the sea

アメリカより。







深夜1時23分。

ユタ州ザイオン。

生きてます。





アメリカはいろいろとデカい。

山、道路、荒野、人、人の器、ハンバーガー、コーラなど。



いろいろ思う事はあるので考えてみたい。









絶叫な生身落下を怖がりすぎて逃げた。

2011年2月12日土曜日

心に訴えると書いて、心底、心訴こう辛いなどとのたまう。

映画監督のデビッドリンチがアルバムを出すらしい。もしくはもうでてる。



音楽は好きだけど

このPVがかなり怖い。





上が映像無しで下がPV 

どうせPV見るなら画質良いので大画面で。



David Lynch 'Good Day Today' (Official Video)





















年上の人の話で、

中原中也の詩集とカフカの虫なんかを愛読していている人で精神的にまいってしまった人が多くいるらしい。



心に訴えかけすぎる心地良さと中毒性?



シュヴァンクマイエルやデビッドリンチもちょっと似た要素があるような気がする。





決して必要十分条件ではないです。









僕の気は確かです。

2011年2月7日月曜日

脳と癒えない偽本心

音楽は耳で楽しむ。まあライブなんか観るときは耳と目と音の触感と脳。





料理を楽しむときは舌と鼻と耳と目とあとはアゴで感じる触感と脳。





写真を楽しむときは目と脳。





本を楽しむときは目と脳かな。





映画を楽しむ時は目と耳と音の触感と脳かな。





人を楽しむ時は五感全部と脳かな。





こう、好きなことを並べてみると五感と脳が感じる面白さにはいろいろあって、

一つの感覚+脳に特化したタイプの楽しみと五感をバランス良く使う楽しみと傾向がある。





おそらく一つの感覚+脳に特化したタイプの楽しみは五感をバランス良く使う楽しみと比べると

それと向き合う時間が多く必要で、それによってその感覚を育てると思う。





その向き合う時間によって感覚が研ぎ澄まされるというより感覚と脳の関係が密になるのだと思う。

だからある意味奥深い。

基本的に音楽、写真、本なんかはそっちの分類。





その感覚と脳の密な関係が作られると五感を楽しむものももっと面白くなるはず。







僕が料理を食べるのが好きで人と話すのが面白いと思うのをちょっと考えてみたらこうなった。











昨日会った面白い人が英語についてこんなことを言っていた。

「日本人は英語を目と脳で理解することは出来ていて、必要なのは口と耳で英語を理解できるようにしてその感覚同士を繋ぐことだよ」と。









漫画ピーナッツに「人生は配られたカードで勝負するしかないんだ」という言葉があって

この言葉を聞いた時はちょっとネガティブなあきらめを感じる思考だと思っていたけれど

本当に伝えたかったのは多くの人には恐ろしく良いカードが配られているんだよ、っていう意味なのかもしれない。







ツーペアなんか狙うなよ、と。

2011年2月3日木曜日

i=?

小難しい気味な数字の話になるけど







この岡部 健氏によるStatementというブログ







の複素数の概念の話が胸のつっかえがとれた感じで気持ち良い。







「ある」が存在するのなら「ない」があって

「どちらでもない何か」があると「どちらでもない何かでない」

がある。これが二つで済むのが美しい。

2011年1月24日月曜日

余裕自由自信

余裕を持つ話。







自信のある人っていろんなことがうまくいくそうな。

その極みはオカルトな宗教団体の神など。



善悪の判断は別として自信には求心力があるらしい。







求心力があったら自分がやりたいこともスムーズにいくような気がしたので、

自信を持ちたいと思った。



自信について考えると、それは自分の能力や想像が実際に直面する状況を包括してるときに生まれる余裕からきていると予想した。

これがまず一つ。



もう一つは楽観からくる根拠のない自信。





前者がベースにあって後者を備えとして持っているのが理想の形だとして、

自分に先にできるのは後者のほうだと思った。





そして、今自分の持ち物の中に「つめの甘さ」がある。





ひょっとすると、この「つめの甘さ」は後者の「自信」の三親等くらいの親戚なのかもしれないという仮説に至る。









おおっ、力が湧いてくるぞ。楽観からくる根拠のない力が。