2014年6月8日日曜日

A man devoted to introspective activities.


26歳になりました。
なかなか更新ができていないのだけど、無事生きています。楽しい日々です。

自分の中で25歳という年齢の重さはこれまでと格別で、
もっともヒトの生死感、有限さをズシリと味わった歳だった。

そんなこともあって、
機会を待つのではなく、自分で選びたいと強く願った。
自分の意思で、自分のタイミングで、人生の舵を切るような選択もした。

自分の意思以外で決められてしまったことは指示された通りに動けばいいから心は楽だ。そして、そのぶん言い訳ができるけど後悔が生まれることもある。それはまっぴらだ。


シビア過ぎたり、誤謬を生むかもしれないけれども、
今、感じることを整理しておきたいと思う。

さまざまなシチュエーションで起こることだけど、
これは自分の時間を費やすべき対象なのかどうか?という感覚が強くなってる。
遊びや体験や挑戦をしないわけではなくて、その取捨選択の幅や質を深く見極めたいと感じるようになった。

昔から持ってた、
自分の中で、「で?」と思うような奥行きのない場や時間に対して、深い感動を得られないことが確信に変わりつつある。

根拠や理由のない刹那的な楽しさに若干の嫌気が差したり、
同時に、生きることに対するざらっとした質感。

それぞれにとって、大事なものがあるべきだと想うんだけど、
個人的な見解として、長期的な目線で深みや奥行きのないことに対してあまり興味を持てなくなった。

自分が求めるものと、それを前提とした毎日に整合性がとれてるのかどうか、辻褄を合わせた日々を送りたいと思う。

まあ、こんな緊迫感のある言い方をしているけど、
・自分が大切にしているものは何なのかじっくりと考える。必要があれば順番を決める。
楽しいと思えることは何なのか、それは10年後にも楽しいと思えるのかを考える。
・家族や友人を大切にする。
とかそういうことだ。


ポール・ブールジェ(Paul Bourget)というフランスの小説家のこのような言葉がある。




Il faut vivre comme on pense, sinon tôt ou tard on finit par penser comme on a vécu.





フランス語でさっぱりなんだけども、
「考えたとおりに生きることだ。そうしないといずれは、生きた通りに考え始めてしまう。」
ということらしい。良い。



心に個人的な強い宗教を持つこと。
芯は強く、柔軟な。


高校生が書いたような文章になっちゃったけど、今回はよしとしよう。