2012年11月30日金曜日

制限時間20分。脳は眠い。

なにかの記事で、
「インターネットの進化なんかによって、誰もが誰か特定のヒトに対してツッコミをいれられるようになったことで、『何もしない、何もやらないけどツッコミはいれる』ことが優位にみえてしまう、正解にみえてしまう世の中に近づいてしまっている」
という話を目にした。

以前から、すごく感じていた違和感で、
新しいことをやる為に一歩前へ出るヒトに対して後ろから見ているヒトの方が優位に立っているように見えてしまうのは何か変だな、と感じていた。
道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターンとか。

そういう状況をみると、とてもやるせない気持ちが湧き出てきたり、ガッカリしてしまう。
大げさにいうと、「なぜ挑戦者が笑われてしまうのだろう」とか「そういうあなたは何様なの?」とか穏やかに考えてしまう。

だから、自分から何かを言い出してみたり、色々やってみたり、という気持ちを少しでも大事にして生きていきたいなと思うし、同時に、そうするヒトを見かければ、受容する器のデカさは持っていたい。
また、誰もがどちらの役割を担えるようになったらいいのに、とも思う。


そんなことをふとした時に考えたりしていた。


先週の休みに高校時代の友達(友達の中で最も哲学者に近い友人)と話したことに繋がっていくんだけど、
[道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターン]
はやはり、非常にテレビ的だ。

無意識か意識的かは程度にもよるけど、大きな常識の基準として成り立ってる文化のテレビのフォーマットに合わせた生活を送ってしまってるヒトが多くいるってことなのかもしれない。

それは、司会者と若手芸人の構図であったり、テレビ番組そのものと画面越しの視聴者の構図だったりする。いわゆるイジりというものだったり、または傍観だったり。

それを生活にはめ込んでしまうのはとても自然じゃない。
プロが演じる作られた番組のやり方を日々の生活に当てはめても、相手がそのテレビ感の共通言語を理解していたとしても、それは画面の向こうの制作された番組の拙い焼き直しになってしまうんだろうな、と感じる。


結局、そんなの奥行きのないおもしろくない真似事になってしまう気がする。




もっとおもしろい会話や展開、おまえなら出来るだろ?もっと自分で考えたくないか?



などと自問自答しながら眠りに落ちるのだった.....

2012年11月16日金曜日