いろんなことが分からないから、枕詞をとっていつも通り最近思うことをのんびりと考える。
もう三ヶ月ほど前の
話、元旦のイオン土浦の本屋でたまたま目に入った新書のキャッチコピー。
「その場所でしか味わえない時間と空気感」
茨城ののんびりカフェ特集みたいな本で、立ち読みした本の内容よりもそのコピーが妙に頭に残った。
時間が経ってその理由が前から思ってた、時間と思い入れと似ていたからだと気づいた。
ちょっと勝手に付け加えさせてもらって、
「その場所でしか味わえない時間と空気感と人」
だ。
そしてなぜそれを大事にしたいかを考えてみるといくつかの思いつきがでてくる。
・過剰なカテゴライズ
・責任と知のバランス
・ルーツを探る
[過剰なカテゴライズ]
それぞれ個別のモノを分かりやすく記号づけする作業「カテゴライズ」によって各々の負担は軽くなってしまう。
例えば、「理系と文系」
文章を読む読解力は数学的な論理性が力になるし、単独な項目を記憶して整理する力は数学や物理の公式にも応用できるはず。相互に高め合うはずの能力が大学受験では分断されたりする。でも、この分断は受験だけではなく、以下の枕詞としてずっと遣われる。
「理系(文系)なのに...」
「やっぱり理系(文系)だね。」
など。
誰もがいくらかは持ってる能力なのに一度理系と文系に分けられることで、その他方を無かったことにする状況が起きる。
不確かで、きっと本人すら未知な情報をカテゴライズすることで、その情報の正誤をぬきにして一度確かな情報になる。そして、そのカテゴライズは無意識に両者の間で成り立って広く普及しているからコミュニケーションは円滑に進む。
このカテゴライズが高度に完成しすぎたことで、たくさんの人は自分の判断の前にたくさんのフィルターがかかる。このフィルターは本人の傾向は影響しても本人の意思はあまり反映されない。そのために「これはこう決まっている」と処理できるようになる。
[責任と知のバランス]
これは高校の先生が言っていた言葉。元々は義務教育が終わり大学にいくお前らは与えられる事を待たずに自分の責任で知を得ろ、といった話だった。
自分なりに言い換えると、カテゴライズに頼らないことで自分の一挙一考に責任がのる。それによってその個人が発する事のできる覚悟のある知は格段に面白くなるという風に言いたい。
[ルーツを探る]
人の第一印象・考え方・言動・生き方はどんな風に決まるんだろうと考えると、それは責任と知がどうやって堆積したかであって地層の断面みたいなものかもしれない。
場所にも同じことが言える。
文化遺産がどんな時を経て現存しているか、ゴールデンゲートブリッジがどのように架けられた橋か、それを知った上でみるのと、知らずにみるのでは決定的に何か違うハズだと思う。たぶん場所にも魂は宿る。
カテゴライズに頼らないことで、もっと自分で綱渡りを楽しむべき。
もちろん相手の心の奥にいくために自分を分かってもらう必要があって、そのためにカテゴリに頼ることはたくさんある。だけど、その頼る時にも自分の思念を織り交ぜなくちゃならない。
たぶんこれには責任が必要で、相手の心に踏み入ることになる。これを繰り返すことでルーツが生まれる。あとは輪廻。
そんなハイレベルな意思疎通をしてみたい。よく分からんけど。
「その場所でしか味わえない時間と空気感と人」
とは
時間の縦軸に場所と人そもそもが持つ空気感に加えて、時間の経過によって高まるルーツが創り出す空気感も混ざることで、その空間独自の面白さが生まれることです。
たぶんそんな感じです。
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