2013年10月23日水曜日

ひとえに共感と言ってもその規模や次元がまるで違う。

世界・日本の偉人について調べたりすると、ある共通点を感じるんだ。

ひとつは、自分の持つ技能や特徴を研鑽すれば世界を変えられると信じていること。
もうひとつは、人々の喜びや苦しみに敏感すぎること。


僕らは基本的には五感から得た情報からしか情報を得られないし、思考が発達するとその先を想像して、さまざまな感情が芽生える。その蓄積から個性や人格が生まれる。その中の蓄積のひとつである「幸せ」や「苦しみ」というのは自分で味わったものと自分以外の誰かが味わったものを正確に比較する事なんて出来そうもないように感じる。もちろん、共感できる部分もあるけど。

「可哀相だから、謝る。同情する」
「とても嬉しそうだから、一緒に喜ぶ。褒め称える」

身近な人であれば、多少なりとも相手の気持ちというものに共感する事が出来るかもしれない。でも赤の他人やまったく違う国の違う言語の人々へ同様の気持ちを感じられるのだろうか。


日本の浮世絵を深く愛し、絵を通して人々の幸せを誰よりも願ったゴッホも、
50歳にして地球の大きさを計る事を天命とした伊能忠敬も、
若さを牢獄・強制労働に消費してもなお、人間の美しさを書こうと筆を執ったドストエフスキーも、
想像を原動力とした好奇心と、五感で得る以上の人間全体としての感情の共感を感じる事が出来たのかもしれない。とんでもない能力。

想いの宿る作成物は違う時間の進み方をする。とてもとても遅い時間の経過を。
そしてこの時代にも届いてきてくれている。



きっとこの時代に生まれてもなにかにワクワクして、なにかはじめるんだろうな。


Glenn Gould 1932 - 1982 Bach The Well-Tempered Clavier.

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