2013年5月6日月曜日

未知を解くもっともありふれた方法としてのアナロジー



思考の整理学という本がある。
もう3年くらい前になる2010年の記事ですこし感想を書いていた。

わずか200数ページの中に多くの教えが詰まっていて、生きていく上でプラスになる物事の考え方や、思考の道筋のヒントがそこらじゅうに散らばっている、すごく好きな本だ。


この本の一章にグライダー人間と飛行機人間についての話がある。

学校はグライダー人間の訓練所である、と筆者は言う。
グライダー人間は自分自身ではエンジンを搭載しておらず、知識や考えに対して受動的。指導する存在、向かうべき道筋を与えられないと、うまく飛べない。飛び方が分からない。

飛行機人間はエンジンを持っている。自分の飛び方を知っている。
自分でものごとを発明、発見できる。

グライダー人間的能力と飛行機人間的要能力もともと1人の人間に備わっている。
でも、小学校、高校、大学、就職と成長していく中でグライダー人間的能力が圧倒的に伸びる。学校教育が整備されればされるほど、グライダー人間的要素は高まっていく。
教育に「慣れ」がくる。


社会で生きていくにはグライダー人間的な要素はもちろん必要なんだけど、この本で筆者はグライダー兼飛行機人間になる事の大切さを説く。
与えられた問題の枠の中でその回答を求める考え方と、問題そのものを作る事が出来たり、自分で目的を創造出来る考え方。

筆者はコンピューターの発達によって、コンピューターがグライダー人間の代わりとなっていくと予見している。
そうすると、コンピュータは圧倒的にグライダー能力に長けているので、グライダー人間の仕事を奪っていってしまうと。



”お互いに似たようなグライダー人間になると、グライダーの欠点を忘れてしまう。知的、知的と言っていれば、翔んでいるように錯覚する。”

”われわれは、花を観て、枝葉を見ない。かりに枝葉は見ても、幹には目を向けない。まして根のことは考えようともしない。とかく花という結果のみに目をうばわれて、根幹に思い及ばない。”

なかなか忙しかったりすると、こういう意識をもって働く事をおろそかにしてしてしまう。
1986年から聞こえてくる珠玉の言葉達は今もなお、生き続けています。





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