そういえば、
昨日、ようやく目と鼻の先にある現代美術館に行った。
本当にふらっと思いつきで入ったんだけど、そういう距離に美術館があるって恵まれたことなのだと引っ越す直前に実感した。
何の展示がやってるか知らなかったので予備知識と予習は無かったけど、おもしろかった。言語化できない。
美術館は平日のお昼に蕎麦を食べて、よく晴れた昼下がりにいくとすごく気分がいい。
2011年3月31日木曜日
2011年3月28日月曜日
通過儀礼の終わり。
小学校 中学校 高校 大学 会社
いつも何かの集合体から何かの集合体に移動するときは
人生の先輩な誰かがアドバイスをくれたりしてくれる。
そういうのもこれで最後だろうな。しみじみ。
いつも何かの集合体から何かの集合体に移動するときは
人生の先輩な誰かがアドバイスをくれたりしてくれる。
そういうのもこれで最後だろうな。しみじみ。
2011年3月21日月曜日
学生最後。
「ノーと言えない日本人」という言葉があるけど
ノーと言えないんじゃなくて相手の為に最大限「もてなす」為に
断らないんだ。
という話。
いろいろ綴りたいけど、学生最後なのにまとまらん。
少しの時間と歯車が噛み合うようなオイルを。
ノーと言えないんじゃなくて相手の為に最大限「もてなす」為に
断らないんだ。
という話。
いろいろ綴りたいけど、学生最後なのにまとまらん。
少しの時間と歯車が噛み合うようなオイルを。
2011年3月19日土曜日
スマートフォン購入相談
ガラケーからスマートフォンへの購入を迷う声はよく聞く。
今回はその際のポイントについて自分なりに話そう。
一つ目の分岐。
[スマートフォンは買うべきか]の問い
・普段ガラケーでネットやったりtwitterやfacebookよく見る人
・外出している時にこんな時にパソコンがあったらなあと思う人
・スマートフォンカッコイイなあと思う人
これらに当てはまるほど買うべき。
加えて、スマートフォンはガラケーに比べると電話・メールの操作性は落ちる気がする。
二つ目の分岐
[androidとiphoneのどっちがいいか]の問い
まず、androidはOSでiphoneは本体。だから比較するのも変な感じ。
androidが入ったスマートフォンとiphoneを比較。
・androidの良い点
カスタマイズし甲斐がある。
アプリがiphoneアプリより管理されてないので
いろいろ便利なモノもある。
機種が豊富でキャリアを選べる。
これから増えそう。
・androidの悪い点
カスタマイズし甲斐があるから自分で管理できるまでちょっと時間かかりそう。放任的。
iphoneアプリにはあるアプリが無かったりする。
ハードとソフトを作ってる会社が違う事が多いこと。
・iphoneの良い点
多くのSNSやアプリ、サイトがiphoneに最適化されてる傾向(flashを除く)
音楽の管理の容易さ(itunes/ipod)
ソフトとハードを作ってる会社がおんなじ。
分かり易い。
・iphoneの悪い点
電波の弱さ
カスタマイズ出来る領域が狭い(リンゴをドクロにすると改善できるけど)
これくらいしか思いつかないけど、大きな特徴は
androidスマートフォンにはソフトとハードの間に溝があって、
iphoneにはiphone自体とキャリアに溝があるということ。
androidは無料で公開されたオープンソースなので、
いくらandroidに合わせて本体を作ったとしてもOSを最大限に活かせていなかったりする。特にソフトに鈍感な日本のメーカーだとなおさらだと思う。
それに対してiphoneは製品としては一つの会社が作っているけど、
iphoneを日本の通信業界に合った形で売るためにキャリアが制限を設けてる。iphoneを最大限活かせていない状況。あと電波の弱さ。
それぞれストレスを感じたりするのはこの部分だと思う。
脱線。
スマートフォンのアプリには沢山のゲームがあるけど、
暇を潰す為に作られたゲームってかなり悲しさがある。
ゲーム業界を志望する友人と話していて思った。
何分か、何時間か空いた時間をどんな気持ちでゲームに向かって費やすかによってゲームの価値は大きくぶれる。
明日ようやく出来る暇な時間にあのゲームをしよう!ってときの
「ゲーム」と、
すること無いからゲームでもしよう。って時の「ゲーム」
はものすごく違うと思うんだ。
これが言葉に潜むイメージだな。
戻線。
もし、自分がこれらの二択を聞かれたら
スピードとカッコよさって答える。
パソコンが無い・使えない状況であれこれ調べたい・みたい・遊びたいスピード感が欲しくて、
且つスマートフォンかっこええ!iphoneかっこええ!
ってなったら買いです。
勝手な意見だけど判断材料にしてくれたらうれしいので連絡ください。
今回はその際のポイントについて自分なりに話そう。
一つ目の分岐。
[スマートフォンは買うべきか]の問い
・普段ガラケーでネットやったりtwitterやfacebookよく見る人
・外出している時にこんな時にパソコンがあったらなあと思う人
・スマートフォンカッコイイなあと思う人
これらに当てはまるほど買うべき。
加えて、スマートフォンはガラケーに比べると電話・メールの操作性は落ちる気がする。
二つ目の分岐
[androidとiphoneのどっちがいいか]の問い
まず、androidはOSでiphoneは本体。だから比較するのも変な感じ。
androidが入ったスマートフォンとiphoneを比較。
・androidの良い点
カスタマイズし甲斐がある。
アプリがiphoneアプリより管理されてないので
いろいろ便利なモノもある。
機種が豊富でキャリアを選べる。
これから増えそう。
・androidの悪い点
カスタマイズし甲斐があるから自分で管理できるまでちょっと時間かかりそう。放任的。
iphoneアプリにはあるアプリが無かったりする。
ハードとソフトを作ってる会社が違う事が多いこと。
・iphoneの良い点
多くのSNSやアプリ、サイトがiphoneに最適化されてる傾向(flashを除く)
音楽の管理の容易さ(itunes/ipod)
ソフトとハードを作ってる会社がおんなじ。
分かり易い。
・iphoneの悪い点
電波の弱さ
カスタマイズ出来る領域が狭い(リンゴをドクロにすると改善できるけど)
これくらいしか思いつかないけど、大きな特徴は
androidスマートフォンにはソフトとハードの間に溝があって、
iphoneにはiphone自体とキャリアに溝があるということ。
androidは無料で公開されたオープンソースなので、
いくらandroidに合わせて本体を作ったとしてもOSを最大限に活かせていなかったりする。特にソフトに鈍感な日本のメーカーだとなおさらだと思う。
それに対してiphoneは製品としては一つの会社が作っているけど、
iphoneを日本の通信業界に合った形で売るためにキャリアが制限を設けてる。iphoneを最大限活かせていない状況。あと電波の弱さ。
それぞれストレスを感じたりするのはこの部分だと思う。
脱線。
スマートフォンのアプリには沢山のゲームがあるけど、
暇を潰す為に作られたゲームってかなり悲しさがある。
ゲーム業界を志望する友人と話していて思った。
何分か、何時間か空いた時間をどんな気持ちでゲームに向かって費やすかによってゲームの価値は大きくぶれる。
明日ようやく出来る暇な時間にあのゲームをしよう!ってときの
「ゲーム」と、
すること無いからゲームでもしよう。って時の「ゲーム」
はものすごく違うと思うんだ。
これが言葉に潜むイメージだな。
戻線。
もし、自分がこれらの二択を聞かれたら
スピードとカッコよさって答える。
パソコンが無い・使えない状況であれこれ調べたい・みたい・遊びたいスピード感が欲しくて、
且つスマートフォンかっこええ!iphoneかっこええ!
ってなったら買いです。
勝手な意見だけど判断材料にしてくれたらうれしいので連絡ください。
2011年3月18日金曜日
追追記
「意識を変える為には人か場所か時間を変えるしかない。最もやってはいけないのは決意を改める事。」
というような言葉を前に耳にしたけど、
「人か場所か時間を変えると意識が変わる。」
みたいに逆に辿ってみれば、
自分が求めているのは意識が変わる事かもしれない。
意識改革、良い兆しある。
というような言葉を前に耳にしたけど、
「人か場所か時間を変えると意識が変わる。」
みたいに逆に辿ってみれば、
自分が求めているのは意識が変わる事かもしれない。
意識改革、良い兆しある。
追記
想像しないことで責任は生じない。
カテゴリを既存の完成品として受け入れない。
良質なモノはカテゴリなんか軽く超えたりする。
少なからずいくつか僕も体験したことがある。けど、こういうものは形容しづらいから、共有が難しい。そのせいもあってカテゴリは強固になってしまうけど、これから生きていればそういう形容しづらいような、ある意味美しいモノにたくさん出会えそうで楽しみすぎる。
カテゴリを既存の完成品として受け入れない。
良質なモノはカテゴリなんか軽く超えたりする。
少なからずいくつか僕も体験したことがある。けど、こういうものは形容しづらいから、共有が難しい。そのせいもあってカテゴリは強固になってしまうけど、これから生きていればそういう形容しづらいような、ある意味美しいモノにたくさん出会えそうで楽しみすぎる。
2011年3月17日木曜日
分かるモノ、伝わるモノ、それは自分へのこだわりか?
いろんなことが分からないから、枕詞をとっていつも通り最近思うことをのんびりと考える。
もう三ヶ月ほど前の
話、元旦のイオン土浦の本屋でたまたま目に入った新書のキャッチコピー。
「その場所でしか味わえない時間と空気感」
茨城ののんびりカフェ特集みたいな本で、立ち読みした本の内容よりもそのコピーが妙に頭に残った。
時間が経ってその理由が前から思ってた、時間と思い入れと似ていたからだと気づいた。
ちょっと勝手に付け加えさせてもらって、
「その場所でしか味わえない時間と空気感と人」
だ。
そしてなぜそれを大事にしたいかを考えてみるといくつかの思いつきがでてくる。
・過剰なカテゴライズ
・責任と知のバランス
・ルーツを探る
[過剰なカテゴライズ]
それぞれ個別のモノを分かりやすく記号づけする作業「カテゴライズ」によって各々の負担は軽くなってしまう。
例えば、「理系と文系」
文章を読む読解力は数学的な論理性が力になるし、単独な項目を記憶して整理する力は数学や物理の公式にも応用できるはず。相互に高め合うはずの能力が大学受験では分断されたりする。でも、この分断は受験だけではなく、以下の枕詞としてずっと遣われる。
「理系(文系)なのに...」
「やっぱり理系(文系)だね。」
など。
誰もがいくらかは持ってる能力なのに一度理系と文系に分けられることで、その他方を無かったことにする状況が起きる。
不確かで、きっと本人すら未知な情報をカテゴライズすることで、その情報の正誤をぬきにして一度確かな情報になる。そして、そのカテゴライズは無意識に両者の間で成り立って広く普及しているからコミュニケーションは円滑に進む。
このカテゴライズが高度に完成しすぎたことで、たくさんの人は自分の判断の前にたくさんのフィルターがかかる。このフィルターは本人の傾向は影響しても本人の意思はあまり反映されない。そのために「これはこう決まっている」と処理できるようになる。
[責任と知のバランス]
これは高校の先生が言っていた言葉。元々は義務教育が終わり大学にいくお前らは与えられる事を待たずに自分の責任で知を得ろ、といった話だった。
自分なりに言い換えると、カテゴライズに頼らないことで自分の一挙一考に責任がのる。それによってその個人が発する事のできる覚悟のある知は格段に面白くなるという風に言いたい。
[ルーツを探る]
人の第一印象・考え方・言動・生き方はどんな風に決まるんだろうと考えると、それは責任と知がどうやって堆積したかであって地層の断面みたいなものかもしれない。
場所にも同じことが言える。
文化遺産がどんな時を経て現存しているか、ゴールデンゲートブリッジがどのように架けられた橋か、それを知った上でみるのと、知らずにみるのでは決定的に何か違うハズだと思う。たぶん場所にも魂は宿る。
カテゴライズに頼らないことで、もっと自分で綱渡りを楽しむべき。
もちろん相手の心の奥にいくために自分を分かってもらう必要があって、そのためにカテゴリに頼ることはたくさんある。だけど、その頼る時にも自分の思念を織り交ぜなくちゃならない。
たぶんこれには責任が必要で、相手の心に踏み入ることになる。これを繰り返すことでルーツが生まれる。あとは輪廻。
そんなハイレベルな意思疎通をしてみたい。よく分からんけど。
「その場所でしか味わえない時間と空気感と人」
とは
時間の縦軸に場所と人そもそもが持つ空気感に加えて、時間の経過によって高まるルーツが創り出す空気感も混ざることで、その空間独自の面白さが生まれることです。
たぶんそんな感じです。
もう三ヶ月ほど前の
話、元旦のイオン土浦の本屋でたまたま目に入った新書のキャッチコピー。
「その場所でしか味わえない時間と空気感」
茨城ののんびりカフェ特集みたいな本で、立ち読みした本の内容よりもそのコピーが妙に頭に残った。
時間が経ってその理由が前から思ってた、時間と思い入れと似ていたからだと気づいた。
ちょっと勝手に付け加えさせてもらって、
「その場所でしか味わえない時間と空気感と人」
だ。
そしてなぜそれを大事にしたいかを考えてみるといくつかの思いつきがでてくる。
・過剰なカテゴライズ
・責任と知のバランス
・ルーツを探る
[過剰なカテゴライズ]
それぞれ個別のモノを分かりやすく記号づけする作業「カテゴライズ」によって各々の負担は軽くなってしまう。
例えば、「理系と文系」
文章を読む読解力は数学的な論理性が力になるし、単独な項目を記憶して整理する力は数学や物理の公式にも応用できるはず。相互に高め合うはずの能力が大学受験では分断されたりする。でも、この分断は受験だけではなく、以下の枕詞としてずっと遣われる。
「理系(文系)なのに...」
「やっぱり理系(文系)だね。」
など。
誰もがいくらかは持ってる能力なのに一度理系と文系に分けられることで、その他方を無かったことにする状況が起きる。
不確かで、きっと本人すら未知な情報をカテゴライズすることで、その情報の正誤をぬきにして一度確かな情報になる。そして、そのカテゴライズは無意識に両者の間で成り立って広く普及しているからコミュニケーションは円滑に進む。
このカテゴライズが高度に完成しすぎたことで、たくさんの人は自分の判断の前にたくさんのフィルターがかかる。このフィルターは本人の傾向は影響しても本人の意思はあまり反映されない。そのために「これはこう決まっている」と処理できるようになる。
[責任と知のバランス]
これは高校の先生が言っていた言葉。元々は義務教育が終わり大学にいくお前らは与えられる事を待たずに自分の責任で知を得ろ、といった話だった。
自分なりに言い換えると、カテゴライズに頼らないことで自分の一挙一考に責任がのる。それによってその個人が発する事のできる覚悟のある知は格段に面白くなるという風に言いたい。
[ルーツを探る]
人の第一印象・考え方・言動・生き方はどんな風に決まるんだろうと考えると、それは責任と知がどうやって堆積したかであって地層の断面みたいなものかもしれない。
場所にも同じことが言える。
文化遺産がどんな時を経て現存しているか、ゴールデンゲートブリッジがどのように架けられた橋か、それを知った上でみるのと、知らずにみるのでは決定的に何か違うハズだと思う。たぶん場所にも魂は宿る。
カテゴライズに頼らないことで、もっと自分で綱渡りを楽しむべき。
もちろん相手の心の奥にいくために自分を分かってもらう必要があって、そのためにカテゴリに頼ることはたくさんある。だけど、その頼る時にも自分の思念を織り交ぜなくちゃならない。
たぶんこれには責任が必要で、相手の心に踏み入ることになる。これを繰り返すことでルーツが生まれる。あとは輪廻。
そんなハイレベルな意思疎通をしてみたい。よく分からんけど。
「その場所でしか味わえない時間と空気感と人」
とは
時間の縦軸に場所と人そもそもが持つ空気感に加えて、時間の経過によって高まるルーツが創り出す空気感も混ざることで、その空間独自の面白さが生まれることです。
たぶんそんな感じです。
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