2013年2月1日金曜日
2013年1月26日土曜日
消費を研ぎ澄ませたい。
なんとなく、給料日も意識せず、気ままに好きなものを買って、ささやかに貯金しながら生活してきた。
それでも問題なく生活できてしまっていたけど、
あらためて一ヶ月の収支を書き出してみると、とても無駄が多いことに気づく。
固定費もこんなに高いのかとか、外食が多すぎたり。
もっと消費を洗練させて、貯めるなり、欲しいものを買うなり、コントロールしていく。
2013年1月14日月曜日
また懲りずに大事なモノを整理してみよう。
あけましておめでとうございます。おめでとう、成人の方々。
そして、ありがとう2012年。もう会えないと思うとすこしさびしい。
2012年は例年以上に、早く過ぎていった1年だったと思う。
4月には急な引越をしたり、家族が病気になったりと、いろいろなことがあったけど、
今までの自分から少し変化があった1年だったと思う。
2012年の振り返りと今後。自己分析の回。
僕は1年前に一晩研いだ程度の脆い刃じゃ刃毀れもせん。という回で簡単な2012年の抱負を述べている。
要約すると、
「幸せってなんなの?もうどうしたらいいか分からないから、努力する事自体を楽しめることを大事にしていきたい」と言っている。
その抽象的な大目標があって、もっと身近に落とし込んだ具体的方法として、
ログをとる事と妥協言葉を言わないというのがあった。
まずは、それを振り返ってみる。
>[努力そのものが楽しいかどうかを基準とする生き方]を意識する。
正直、仕事については努力そのものが楽しいかどうかなんて天秤にかけている余裕すらなかった。与えられた事で精一杯だった。もちろん中には楽しいと思える事もあったけどプレッシャーに押し潰されてしまいそうな事もたくさんあった。
いわゆるプロはヘビーなプレッシャーの中で仕事を真剣にこなしていくものを指すのかと思うけど、自分はまだその領域に達していないと感じた。
出来る事なら、もっとユルっとした環境に身をおきたいという甘い気持ちもある。まだ若いのかもしれない。
仕事以外の部分については、比較的自分が楽しいと感じる事に対して時間を割くように動けていたと思う。失敗も多かったけど。
こう、去年の抱負を振り返って感じるのは、
そもそも努力すること自体はだいたいのケースで楽しい事ではなくて、もしかしたら努力を楽しいと感じてる時点でそれは努力ではないのかもしれない..。
楽しいと感じるのはその努力をする理由となる目的が達成される時であって。
策を尽して励む事は、いつも自分から少しはみ出た領域を広げていく作業になるはずだし。
つまるところ、個人的に「積み上げていくような楽しさ」は辛抱や我慢の上に成り立つのかもしれない。山あり谷ありとか、石の上にも三年とか古くからある言葉の意味がようやく、この歳になって落とし込まれたような感じ。
>1.ログをとる。
たくさんの頻度では出来なかったけど、ちょこちょこ一言メモを残す事は出来た。あとでみて意味が分からないものも多かったけど。
今年はもう少し頻度を増やして、もっと整理しておきたい。
>・妥協言葉を言わないこと
おそらく去年の目標の中ではこれが一番達成出来た。
妥協する言葉を言うほど、逃げ腰になるし、みじめになるような気がしたから、余計に言わないようになった。
これからもあんまり言わないと思う。
これからは今年のキーワード。
□新しい事を知る為にはより貪欲にいくべき。
歳を重ねる度に、新しい事を知る事に対しての驚きや新鮮味が薄れていっているような気がするから、意識的にでも、興味の源泉を保つようにする。
□どうならないか、よりどうあるべきかに重点をおく。
最悪のケースを潰していって、選択をするよりも、目指すべきポイントに対してのアプローチを優先する。スピードと強弱と繊細さを。
□青春やノスタルジーを忘れない。
音楽、映画、小説などから得られる言葉にしにくい感情の機微や自分の心の中にあるモヤモヤをなるべく保持する。世俗的になり過ぎない。
去年から、「どの現実も、あの過去もその未来も、この現実に落ち着く」ってよく考えてる。
抽象的な表現になるけど。
どんな悲劇的事実も讃えられるような功績もどれもちょっと前の現実と深く繋がってるって思うような事柄がいくつかあった。昔のある地点で立てた目標のポイントにいざ立ってみたりすると、すごくあっけなくて、現実なんだけど、すごく現実味がない。具体的に想像できていなかった目標や、想像もしていなかった事態がいざ起きると別世界、違う世界のような気がして、「え、本当に起こるの?」っていう今までの現実とのズレが起きる。
そういうような所感が多いので、一言でいうと、
遠い将来のことはどうなっているか分からないけど、近い将来は今生きてる現実の自分の取捨選択、時間の使い方、思考のパターンが深く関係して形作られる事に確信を得つつある。当たり前か。けど実感として。
結論、もっともっと覚悟して現実を楽しもう。怖がることもないし。
どうぞ、今年も宜しく。
そして、ありがとう2012年。もう会えないと思うとすこしさびしい。
2012年は例年以上に、早く過ぎていった1年だったと思う。
4月には急な引越をしたり、家族が病気になったりと、いろいろなことがあったけど、
今までの自分から少し変化があった1年だったと思う。
2012年の振り返りと今後。自己分析の回。
僕は1年前に一晩研いだ程度の脆い刃じゃ刃毀れもせん。という回で簡単な2012年の抱負を述べている。
要約すると、
「幸せってなんなの?もうどうしたらいいか分からないから、努力する事自体を楽しめることを大事にしていきたい」と言っている。
その抽象的な大目標があって、もっと身近に落とし込んだ具体的方法として、
ログをとる事と妥協言葉を言わないというのがあった。
まずは、それを振り返ってみる。
>[努力そのものが楽しいかどうかを基準とする生き方]を意識する。
正直、仕事については努力そのものが楽しいかどうかなんて天秤にかけている余裕すらなかった。与えられた事で精一杯だった。もちろん中には楽しいと思える事もあったけどプレッシャーに押し潰されてしまいそうな事もたくさんあった。
いわゆるプロはヘビーなプレッシャーの中で仕事を真剣にこなしていくものを指すのかと思うけど、自分はまだその領域に達していないと感じた。
出来る事なら、もっとユルっとした環境に身をおきたいという甘い気持ちもある。まだ若いのかもしれない。
仕事以外の部分については、比較的自分が楽しいと感じる事に対して時間を割くように動けていたと思う。失敗も多かったけど。
こう、去年の抱負を振り返って感じるのは、
そもそも努力すること自体はだいたいのケースで楽しい事ではなくて、もしかしたら努力を楽しいと感じてる時点でそれは努力ではないのかもしれない..。
楽しいと感じるのはその努力をする理由となる目的が達成される時であって。
策を尽して励む事は、いつも自分から少しはみ出た領域を広げていく作業になるはずだし。
つまるところ、個人的に「積み上げていくような楽しさ」は辛抱や我慢の上に成り立つのかもしれない。山あり谷ありとか、石の上にも三年とか古くからある言葉の意味がようやく、この歳になって落とし込まれたような感じ。
>1.ログをとる。
たくさんの頻度では出来なかったけど、ちょこちょこ一言メモを残す事は出来た。あとでみて意味が分からないものも多かったけど。
今年はもう少し頻度を増やして、もっと整理しておきたい。
>・妥協言葉を言わないこと
おそらく去年の目標の中ではこれが一番達成出来た。
妥協する言葉を言うほど、逃げ腰になるし、みじめになるような気がしたから、余計に言わないようになった。
これからもあんまり言わないと思う。
これからは今年のキーワード。
□新しい事を知る為にはより貪欲にいくべき。
歳を重ねる度に、新しい事を知る事に対しての驚きや新鮮味が薄れていっているような気がするから、意識的にでも、興味の源泉を保つようにする。
□どうならないか、よりどうあるべきかに重点をおく。
最悪のケースを潰していって、選択をするよりも、目指すべきポイントに対してのアプローチを優先する。スピードと強弱と繊細さを。
□青春やノスタルジーを忘れない。
音楽、映画、小説などから得られる言葉にしにくい感情の機微や自分の心の中にあるモヤモヤをなるべく保持する。世俗的になり過ぎない。
去年から、「どの現実も、あの過去もその未来も、この現実に落ち着く」ってよく考えてる。
抽象的な表現になるけど。
どんな悲劇的事実も讃えられるような功績もどれもちょっと前の現実と深く繋がってるって思うような事柄がいくつかあった。昔のある地点で立てた目標のポイントにいざ立ってみたりすると、すごくあっけなくて、現実なんだけど、すごく現実味がない。具体的に想像できていなかった目標や、想像もしていなかった事態がいざ起きると別世界、違う世界のような気がして、「え、本当に起こるの?」っていう今までの現実とのズレが起きる。
遠い将来のことはどうなっているか分からないけど、近い将来は今生きてる現実の自分の取捨選択、時間の使い方、思考のパターンが深く関係して形作られる事に確信を得つつある。当たり前か。けど実感として。
結論、もっともっと覚悟して現実を楽しもう。怖がることもないし。
どうぞ、今年も宜しく。
2012年12月31日月曜日
きっと、サイコロは神を信頼している。
数学的にありえない、という本を読んだ。興味深い生き方をしている人生の先輩からの薦めで。
癲癇の持病に悩み、それが原因で統計学講師を辞め、ギャンブル(ポーカー)中毒の天才数学者の主人公と、元KGB、現CIAの美女殺し屋の2人がある「能力」を物語の核として、
いろいろと紆余曲折あって、なんかもう、すごいことになる。笑
この本のおもしろい部分は、
いわゆるハリウッド映画的な主人公のがトラブルに巻き込まれてく+国際的な陰謀とかに絡んじゃってる美人スパイ+手に汗握るアクション+程良いサスペンス要素がベースになってるんだけど、その物語のコアとなっている「能力」について統計学・生物学‥物理学のリアリティ溢れる説明や物語との絡ませ方が絶妙に知的好奇心を刺激する。
話の中に出てくる理論は、(ネタバレかも)
ハイゼンベルクの不確定性原理(ある2つの物理量を同じ条件下で測定することはできない)
シュレーディンガーの猫に対する2つの解釈
-量子力学的な意味合いで、観測しなければ結果が収束しない一般解釈(コペンハーゲン解釈)
-宇宙目線で絶対的に考えて、枝分かれした並行世界が同時に存在している(エヴェレットの多世界解釈)
特殊相対性理論(1.いつも自然な法則は成り立つ 2.光の速さは変わらないの2つの大原則)
とかもろもろの説明と解釈を示して、
ラプラスの悪魔(訳ではラプラスの魔)を肯定する。
※本の中では分かりやすい例えやしつこくない講義風の説明でリズミカルに解説してくれます。
ちょっとだけでも数学をかじってるとそそる内容になっていて、「いったい世界ってどうなってるの?」とか少年みたいな気持ちが少しでもあったりするとさらに興味深い内容になってる。著者は統計学者らしい。選択肢があるときには期待値を算出するのは今後の判断材料にも役に立つかもしれない。
と、学が無くて全然説明出来てないんだけど、本を読むとかなりわかりやすく説明してくれます。おもしろいよ。
2012年12月16日日曜日
2012年12月3日月曜日
つながろうとするほど、孤独になっていく。
Sherry Turkle: Connected, but alone?
もやもやっとしてたSNSやデジタル機器との付き合い方のヒントになる動画だ。こういうこと。
あとでちゃんと観よう。
2012年12月2日日曜日
2012年11月30日金曜日
制限時間20分。脳は眠い。
なにかの記事で、
「インターネットの進化なんかによって、誰もが誰か特定のヒトに対してツッコミをいれられるようになったことで、『何もしない、何もやらないけどツッコミはいれる』ことが優位にみえてしまう、正解にみえてしまう世の中に近づいてしまっている」
という話を目にした。
以前から、すごく感じていた違和感で、
新しいことをやる為に一歩前へ出るヒトに対して後ろから見ているヒトの方が優位に立っているように見えてしまうのは何か変だな、と感じていた。
道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターンとか。
そういう状況をみると、とてもやるせない気持ちが湧き出てきたり、ガッカリしてしまう。
大げさにいうと、「なぜ挑戦者が笑われてしまうのだろう」とか「そういうあなたは何様なの?」とか穏やかに考えてしまう。
だから、自分から何かを言い出してみたり、色々やってみたり、という気持ちを少しでも大事にして生きていきたいなと思うし、同時に、そうするヒトを見かければ、受容する器のデカさは持っていたい。
また、誰もがどちらの役割を担えるようになったらいいのに、とも思う。
そんなことをふとした時に考えたりしていた。
先週の休みに高校時代の友達(友達の中で最も哲学者に近い友人)と話したことに繋がっていくんだけど、
[道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターン]
はやはり、非常にテレビ的だ。
無意識か意識的かは程度にもよるけど、大きな常識の基準として成り立ってる文化のテレビのフォーマットに合わせた生活を送ってしまってるヒトが多くいるってことなのかもしれない。
それは、司会者と若手芸人の構図であったり、テレビ番組そのものと画面越しの視聴者の構図だったりする。いわゆるイジりというものだったり、または傍観だったり。
それを生活にはめ込んでしまうのはとても自然じゃない。
プロが演じる作られた番組のやり方を日々の生活に当てはめても、相手がそのテレビ感の共通言語を理解していたとしても、それは画面の向こうの制作された番組の拙い焼き直しになってしまうんだろうな、と感じる。
結局、そんなの奥行きのないおもしろくない真似事になってしまう気がする。
もっとおもしろい会話や展開、おまえなら出来るだろ?もっと自分で考えたくないか?
などと自問自答しながら眠りに落ちるのだった.....
「インターネットの進化なんかによって、誰もが誰か特定のヒトに対してツッコミをいれられるようになったことで、『何もしない、何もやらないけどツッコミはいれる』ことが優位にみえてしまう、正解にみえてしまう世の中に近づいてしまっている」
という話を目にした。
以前から、すごく感じていた違和感で、
新しいことをやる為に一歩前へ出るヒトに対して後ろから見ているヒトの方が優位に立っているように見えてしまうのは何か変だな、と感じていた。
道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターンとか。
そういう状況をみると、とてもやるせない気持ちが湧き出てきたり、ガッカリしてしまう。
大げさにいうと、「なぜ挑戦者が笑われてしまうのだろう」とか「そういうあなたは何様なの?」とか穏やかに考えてしまう。
だから、自分から何かを言い出してみたり、色々やってみたり、という気持ちを少しでも大事にして生きていきたいなと思うし、同時に、そうするヒトを見かければ、受容する器のデカさは持っていたい。
また、誰もがどちらの役割を担えるようになったらいいのに、とも思う。
そんなことをふとした時に考えたりしていた。
先週の休みに高校時代の友達(友達の中で最も哲学者に近い友人)と話したことに繋がっていくんだけど、
[道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターン]
はやはり、非常にテレビ的だ。
無意識か意識的かは程度にもよるけど、大きな常識の基準として成り立ってる文化のテレビのフォーマットに合わせた生活を送ってしまってるヒトが多くいるってことなのかもしれない。
それは、司会者と若手芸人の構図であったり、テレビ番組そのものと画面越しの視聴者の構図だったりする。いわゆるイジりというものだったり、または傍観だったり。
それを生活にはめ込んでしまうのはとても自然じゃない。
プロが演じる作られた番組のやり方を日々の生活に当てはめても、相手がそのテレビ感の共通言語を理解していたとしても、それは画面の向こうの制作された番組の拙い焼き直しになってしまうんだろうな、と感じる。
結局、そんなの奥行きのないおもしろくない真似事になってしまう気がする。
もっとおもしろい会話や展開、おまえなら出来るだろ?もっと自分で考えたくないか?
などと自問自答しながら眠りに落ちるのだった.....
2012年11月16日金曜日
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