2012年12月3日月曜日
つながろうとするほど、孤独になっていく。
Sherry Turkle: Connected, but alone?
もやもやっとしてたSNSやデジタル機器との付き合い方のヒントになる動画だ。こういうこと。
あとでちゃんと観よう。
2012年12月2日日曜日
2012年11月30日金曜日
制限時間20分。脳は眠い。
なにかの記事で、
「インターネットの進化なんかによって、誰もが誰か特定のヒトに対してツッコミをいれられるようになったことで、『何もしない、何もやらないけどツッコミはいれる』ことが優位にみえてしまう、正解にみえてしまう世の中に近づいてしまっている」
という話を目にした。
以前から、すごく感じていた違和感で、
新しいことをやる為に一歩前へ出るヒトに対して後ろから見ているヒトの方が優位に立っているように見えてしまうのは何か変だな、と感じていた。
道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターンとか。
そういう状況をみると、とてもやるせない気持ちが湧き出てきたり、ガッカリしてしまう。
大げさにいうと、「なぜ挑戦者が笑われてしまうのだろう」とか「そういうあなたは何様なの?」とか穏やかに考えてしまう。
だから、自分から何かを言い出してみたり、色々やってみたり、という気持ちを少しでも大事にして生きていきたいなと思うし、同時に、そうするヒトを見かければ、受容する器のデカさは持っていたい。
また、誰もがどちらの役割を担えるようになったらいいのに、とも思う。
そんなことをふとした時に考えたりしていた。
先週の休みに高校時代の友達(友達の中で最も哲学者に近い友人)と話したことに繋がっていくんだけど、
[道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターン]
はやはり、非常にテレビ的だ。
無意識か意識的かは程度にもよるけど、大きな常識の基準として成り立ってる文化のテレビのフォーマットに合わせた生活を送ってしまってるヒトが多くいるってことなのかもしれない。
それは、司会者と若手芸人の構図であったり、テレビ番組そのものと画面越しの視聴者の構図だったりする。いわゆるイジりというものだったり、または傍観だったり。
それを生活にはめ込んでしまうのはとても自然じゃない。
プロが演じる作られた番組のやり方を日々の生活に当てはめても、相手がそのテレビ感の共通言語を理解していたとしても、それは画面の向こうの制作された番組の拙い焼き直しになってしまうんだろうな、と感じる。
結局、そんなの奥行きのないおもしろくない真似事になってしまう気がする。
もっとおもしろい会話や展開、おまえなら出来るだろ?もっと自分で考えたくないか?
などと自問自答しながら眠りに落ちるのだった.....
「インターネットの進化なんかによって、誰もが誰か特定のヒトに対してツッコミをいれられるようになったことで、『何もしない、何もやらないけどツッコミはいれる』ことが優位にみえてしまう、正解にみえてしまう世の中に近づいてしまっている」
という話を目にした。
以前から、すごく感じていた違和感で、
新しいことをやる為に一歩前へ出るヒトに対して後ろから見ているヒトの方が優位に立っているように見えてしまうのは何か変だな、と感じていた。
道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターンとか。
そういう状況をみると、とてもやるせない気持ちが湧き出てきたり、ガッカリしてしまう。
大げさにいうと、「なぜ挑戦者が笑われてしまうのだろう」とか「そういうあなたは何様なの?」とか穏やかに考えてしまう。
だから、自分から何かを言い出してみたり、色々やってみたり、という気持ちを少しでも大事にして生きていきたいなと思うし、同時に、そうするヒトを見かければ、受容する器のデカさは持っていたい。
また、誰もがどちらの役割を担えるようになったらいいのに、とも思う。
そんなことをふとした時に考えたりしていた。
先週の休みに高校時代の友達(友達の中で最も哲学者に近い友人)と話したことに繋がっていくんだけど、
[道化を演じるヒトに対して、何もしてないヒトが評論することが安牌となるパターン]
はやはり、非常にテレビ的だ。
無意識か意識的かは程度にもよるけど、大きな常識の基準として成り立ってる文化のテレビのフォーマットに合わせた生活を送ってしまってるヒトが多くいるってことなのかもしれない。
それは、司会者と若手芸人の構図であったり、テレビ番組そのものと画面越しの視聴者の構図だったりする。いわゆるイジりというものだったり、または傍観だったり。
それを生活にはめ込んでしまうのはとても自然じゃない。
プロが演じる作られた番組のやり方を日々の生活に当てはめても、相手がそのテレビ感の共通言語を理解していたとしても、それは画面の向こうの制作された番組の拙い焼き直しになってしまうんだろうな、と感じる。
結局、そんなの奥行きのないおもしろくない真似事になってしまう気がする。
もっとおもしろい会話や展開、おまえなら出来るだろ?もっと自分で考えたくないか?
などと自問自答しながら眠りに落ちるのだった.....
2012年11月16日金曜日
2012年10月23日火曜日
2012年9月29日土曜日
夢の中に出てくることを夢中と言うのなら
tha blue herbとenvyを観てきた。詳細
3年振りの共演となる異種格闘技戦。
これが良かった。
tha blue herbで頭の中が言葉で一杯になった。envyの激しさでまた一杯になる。
違ったのジャンル・嗜好の2つの良いモノを観て、新しい聴後感が作られる感じ。(下記参考..になるのか?)
特にtha blue herbのbossさん、あそこまでストイックで男気のある人間は初めて観た。演者とかパフォーマンスをはみ出た存在な印象。カリスマ化するのも分かる。
例えば、この動画。
2000年のフジロックで出演した時のill beatnikという曲。ピアノのトラックに詩を載せたシンプルな曲。
冒頭の政治についての言葉は割愛して2:00〜から聴くのが推奨。
誰もが、日々考える事、聴く音楽、変化し続けていて、もちろん一巡して戻るものもあるけど、そうやって新しいものを取り入れて、自分が持てる分のものを入れ替えて歳を重ねてく。
きっと、CDを沢山持っていても、今自分の耳が受け入れるのその一部だったりする。でもふと昔のCDを棚から引っこ抜いて聴いてみるとちょうど良く自分の耳にハマったりもする。また新しいのを買う。
そうやって、より良いもの、面白いものと求めていく事が人生の楽しみのひとつだったりすると考えるんだけど、
この動画を観て思うのは、 自分達でこれが正しい、と思う事があって、それを黙々と続けて、それを信じていて、それを繰り返し続けてくれていて、そこにまた辿り着けると、あの時の俺には何とも思わなかった事も、今聴くとまた違った感情が沸々と湧き出ててくる。 同じ場所でずっと待っていてくれているというか、「あの時、君が言ってた事はこういうことだったんだ」的な安堵や感謝の入り混じった静かな感動があったりする。
仲の良い友達からのアドバイスがじわじわ効いてくるような。
たしか、4年ほど前に初めて聴いたこの曲、 THA BLUE HERB - 未来は俺等の手の中
なんでだろうな、、とぼーっと考えると、自分の人生が以前より厳しさが増しているからだと感じる。
昔は、正しい事や言葉にすると恥じらいや照れくささがある事に対して、斜に構えたポーズをとっていたんだと。ヌルくても何の問題もなかったから。
今、自分が取り巻く環境は昔とは違っていて、何が何でもとか、少しでも成功する可能性を上げたいとか、失敗する可能性を下げたいとか、必死になったりする。正直キツいなと思う事も多い。 きっかけは仕事し始めてからかもしれないけど、他の部分にも波及するべき考え方だとも思う。
そんな毎日を送ってる時に、淡々と20年近く変わらずストイックな音楽聴くとやっぱ元気をもらえたりする。 宗教じみたファンがいそうな気もするけど、どうでもいい。
俺は素直に格好良い音楽だと感じて聴く。
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blueherbのこの動画を観てから、程なく、ものすごくうるさくてありえないほど近いという映画を観た。9.11で父親を失った子供の成長を描く映画。 終盤にこの映画の山場とも言える感情の起伏が起きるシーンがある。主人公の少年が3分ほど語るシーン。※映画を観ようと思ってるヒトは動画を観ないほうがいいかもしれません。
なんとなく考えるのは、告白って言葉がしっくりくるな、と。
個人的な感情を包み隠さず誰かに話すシチュエーションって日常生活じゃほとんどない。
だけど、誰かが告白する時、つい、聞き入る。しっかりと聞く。
精神純度の高いカタマリをそのまま取り出す、危うさ。その魅力足るや。
(ああ、この話、もっとちゃんと推敲すればもっと正確に伝えられるのになあ、と思いながら投稿する事をここに記す。2012-09-29)
また、envyは11/4に代官山UNITで君の靴と未来の完全再現ライブを行うらしい。 とても興味ある。
そして、本日はこちらに参加します。またな、9月。来年も同じ場所で。
2012年9月23日日曜日
2012年9月9日日曜日
2012年9月7日金曜日
9/7
envy / THA BLUE HERB
LIQUIDROOM 8th ANNIVERSARY presents “UNDER THE INFLUENCE” 「envy×THA BLUE HERB」 9/27
これを観に行くので、存分に予習始める。仕事休めるのかなあ。
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